病院特有の無機質で生気を感じさせない空気が、いつも苦手だった。滅菌されて、清潔で、消毒液のにおいがする。ロビーでぐったりとソファに座っている外来の患者を横切って、ナースステーションで老人の娘の名前を告げた。届け物への許可ももらった。
廊下を歩きながら、自分のブーツが立てる音が騒音だと思った。この大きな病院の静けさが、小さな音を丁寧に捕捉して、廊下が反響させる。
ナースステーションで言われた部屋に来ると、そこは個室だった。ノックして入ると、誰もいない。留守だとしたら、このまま荷物を置いていく作業になる。
「どちら様?」
入り口から小さな声がかかって、振り返ると女が立っていた。部屋に戻ってきたようだった。
「ストライフデリバリーサービスです」会釈をする。「お届け物です」
「届け物?」
細いシルエットの女だった。腕に点滴をしている。顔を見ると、老人と同じ、黒い瞳があった。長くてパーマのかかった髪。色が白い。年は俺と同じくらい。老人は「もう長くない」と言っていたが、この立ち姿からは、死ぬなんてなかなか考えられない。エネルギッシュでこそないが、声にもボリュームがある。
「ええ、サインを」
「分かりました」
女にペンを渡すと、「誰から?」と聞いてきた。
「お父さんからです」とは言えない。事情の一切を知られているのは、あまり気分のいいものでもないから。
だから老人の名前を言った。女が息を呑むのが分かった。
サインが終わって、営業用の言葉一式を述べ、帰ろうとする。すると女が呼び止めた。
「待って」強い口調。
「はい?」
「これって、受取拒否とか出来ますか」
「・・・・・・・・出来ますよ」
手続きが要りますよ、と言った自分がむなしい。老人は、この女と喧嘩別れしたと言っていた。でも送られたものを拒否するほど、ひどい喧嘩だったんだろうか。
女が箱を手渡してくる。受け取るとき、細い指に目がいった。
白く、
枯れた、
細すぎる指。
骨格の細さではない。肉が削げ落ちたときに表れる細さだ。たしかにこの女は病に侵されているんだ。
何の病気かは分からない。髪を見るところ、癌でもなさそうだし、肌が荒れている様子もない。無菌室にいるわけでもない。顔が白すぎるけど、不健康さは感じられない。でも、死んでしまう。
「・・・・・・・ねえ」女が気づいたようだ。こちらをうかがっている。
「あの人」
「はい?」
「・・・・・・・どうしてた?」
「どう、とは?」
「見た目、とか、生活的なこととか」
「杖をついてました」
女は顔をふせて、少し黙った。
「あの、これ」俺は黙って受け取りたくない。
「え?」
「開けるだけ、開けてみたらどうですか?」
「・・・・・・・・・・」
細い指が、箱に触れようとする。しかし、寸前で終わった。両腕を垂らして、女は首を振った。
「嫌。出来そうにない。無理よ」
「どうして」
女が、笑った。きれいな形で持ち上がった唇が、乾いているのに、今気づいた。
「・・・・・・・・・・」
「私も、あなたと同じ。神羅で働いていたの」
急なことにびっくりして、俺は顔を上げた。手に持った箱を落としそうになる。女はベッドに腰掛けた。
「あなた、ソルジャーね」
「・・・・・・・・・・」
黒い瞳がこちらを見ていた。表情はない。今、この人が本当に見ているのは俺ではないんだろう。
「私、あの町が嫌いだった。父が嫌いだった。
暮らしづらくて、辛気臭くて、つまんなくて、くるしくて、体にカビでも生えてくるんじゃないかって思ってた。だから二十歳で家を飛び出して、それっきり。捨てたのよ。
まっさきにミッドガルに行った。初めて神羅ビルを見て、すぐにここに入ろうって決めた。
実際にすんなり入れた。人員不足の部署があって、そこに充てる人を探してたみたいだから。知ってるでしょ?宝条博士担当の科学部。だからあなたがソルジャーだってすぐ分かった。
下っ端の社員だったけど、けっこう頑張ってた。毎日死ぬほど忙しかったけど、その分充実してたし、何より前の生活とまるで違ったもの」
俺はニブルヘイムのことを思い出した。出て行った理由は彼女とまるで同じではないけど、いくつか共通することがある。だから、この女が本当は自分の故郷が心底嫌いではないことが分かる。本当に嫌いなものは、自分だったりする。その事実に気づいてはいた。
それでも、出て行きたかった。そうせざるを得ない、衝動。
俺は自分の中に、何かくすぶっているものがあるのに気づいた。あの腐ったピザに対する一種の思い入れのようなもの。都会へのあこがれ、孤独の追求。
「ミッドガルが好きだった?」
「分からない。自分の町にいたくなくて、ミッドガルに出てきたの。別にミッドガルの何かが好きなわけじゃなかったの」
「帰りたいと思ったことは?」
「ない。あそこに私の居場所なんてなかった。
私が小さいころ、母さんが死んじゃって。父さんはもともと冷たい人だった。あの町にも、あんまりいい思い出ない。乱暴な人が多くて、小汚い感じがしたし。病気が多かったな」
俺が見たところ、老人はそんなに冷たい人には見えなかったけど、女が出て行ったころは違ったのだろう。この女を見る限り、あの老人は見た目ほど年をとってなかったと思われるけど、見た目が老いてしまったことを話したら、女はどう思うのだろうか。
「それに比べて、ミッドガルがいいかって聞かれたら、たしかに、そうじゃない。上はともかく、下はひどかったでしょ。だから下にはめったに行かなかった。
でもあの町は小さい枠でしかなかったけど、ミッドガルは羽を広げられたと思うの。自分が認められた気がした」
でもね、変なの。
「あそこが私の居場所だとは思えなかった」
女の声が小さくなっている。
ミッドガルってそんな土地だ。どれだけ仲が良くても、みんな他人。寄せ集め。そんな空気がした。他人同士でも家族のようにできるコミュニティの方がかえってめずらしいのだ。見えない境界線があって、お互いに侵略しないことがルールだった。俺はそんな壁を持たない人物を一人だけ知っているけど、それだけだった。
「あの」
だからよけい、老人の荷物を開けるべきだと思う。喧嘩別れした二人が共有するものはこれしかない。
「やっぱり開けてみたほうがいい」
もう一度箱を差し出した。女は迷っていたけど、震える手で受け取った。
部屋の片隅の小さな棚へ行き、そこでハサミをとりだして、包装を破った。そうして箱を開けた。
「・・・・・・・・・・」
何が入っているんだろう。ここからは細い背中が見えるだけで、箱の中身が分からない。
女が手を口元へ持っていって、覆った。声が出るのを抑えたようだ。
「――――――――お父さん。・・・・・」
女の肩が震えた。一定のリズムで、小さく。泣いているのだ。
そのまま俺はそこに突っ立っていた。病院の白さと、女の押し殺した声だけがそこにある。
5分も経たなかったと思う。泣き止んだ女は真っ赤な目をこちらに向けた。
「ねえ」
「はい?」
「私、死ぬの」
「・・・・・・・・・・」
「この部屋、病院スタッフの控え室から一番近いの。死期が一番近い人がここに移される」
もうきっとカウントダウンの時期なんだ。老人の言うとおり、この女の時間は少ない。思えば女のしている点滴も、部屋にある機械も、重い病気を連想させそうなものだ。
「ねえ、分かる?死ぬのを待つだけの気持ち」
「分かるよ」と言おうと思ったけど、言えなかった。そんなこと言ってもこの女の気持ちがおさまらないことを、俺は経験で知っている。仮に気持ちがおさまったとしても、カウントが止まることもない。だから、うつむいて黙った。
「ねえ」
「・・・・・・・・・・」
「私、死ぬの」
震えた声だ。攻撃的な言葉。忍び足で、確実に迫ってくる死の存在を、大きさを、すべて受け入れきれる人間なんていない。何かが崩壊してもおかしくないだけのプレッシャがある。何もかもあがくだけになるなら、いっそ迎えに来てくれたらいいのに。だからといって、俺はあきらめたくない。
「やっぱり」
「え?」
「お父さんと話すべきだ」
「・・・・・・・・・いや」
「会うだけでいい」
「なんで」
「後悔する」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺は後悔した。母さんが死んでしばらく経つけど、やっぱり悲しい。会いたいと思う」
「・・・・・・・お父さんは?」
「小さいころ死んだ。俺が顔も思い出せないぐらい」
「会いたい?」
「分からないよ」
「・・・・・・・・・考えてみる」
「それじゃあ、お大事に」と声をかけるのを忘れない。
それだけを言い残して病室から出た。これ以上干渉してしまうのは良くないと思ったからだ。これから二人が会うかどうかは本人の判断ですればいい。互いに連絡先は分かっている。
「ねえ、あなた」戸口で声がかかった。
「あの人は杖をついているって言ったわよね」
「ええ」
「そう、分かった」
ふわっと、女が微笑んだ。白い笑顔。透明な、そこだけ静止画にしたような、そんな印象が残った。
「ありがとう」
その言葉に、震えた。会釈して病室を出る。走り出したい衝動を押し殺した。ここは病院だから走ってはいけない。
最後の、女の白い笑顔が頭にこびりついて離れない。俺はきっとあの表情を忘れないと思った。もうおそらく二度と見ることがないとも。
「・・・・・・・・・ハッ」
バイクにまたがりながら、まぶたを押さえた。今にもあふれ出しそう。この感情をなんというのだろう。息を詰めて、壊れないように安定させるまで、しばらくかかった。
その足で家まで帰るころに、夕方にさしかかる。ほんのりとしたオレンジに、病院の白さが頭から消えていく。なんとなく、「生きてる」だなんて思ってしまう。馬鹿みたいだ。あんなことがなければ思わなかったことだ。他人の死を基準に自分が生きていると自覚するなんて、悲しすぎる。
自宅に着くと、昨日と同じように、ティファが家の入り口で出迎えてくれた。
笑って出迎えてくれたから、ここで抑えていたものが崩壊した。気がついたら彼女を夢中で抱きすくめている。
ティファは驚かなかった。俺の頭をなでながら「うん」とうなずいてくれた。
「ティファ」
「分かってる」そう言って、ティファが頬を寄せる。
「うがいしておいで」
―END―
ちょっとgdgdになりかけて焦りましたよー。危ない、あぶない。中だるみしそうで。
今回のテーマは「傍観」ですね。実際に自分に何かあったわけではないけど、なんとかかんとかな話。
ほら、本とか映画とか見て悲しくなったりしますでしょ。あれって実はただの文字列や動画でしかないわけです。しかも自分が見なければ何の意味もないと。私たちが読んだり見たりすることによって生きて、死んでしまうものがあるんですよ。物語のなかで傷つくキャラクタたちは、私たち自身が受け取ることで傷つけているという解釈が出来るんです。以前そういう事実に個人的にショックを受けたことがあるんです。要するに今回は管理人ひろしま自身への大きな皮肉です。
不快に思われた方、申し訳ございません。次回はもっと丁寧でやさしいシリアスを書いていこうと思っているので、これからもよろしくお願いします。
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